第03回:権力を遠ざける心理的・構造的障壁

前稿(第02回)において、我々は権力を「悪」という道徳的判断から切り離し、ビジョン実現のための「中立的なリソース(エネルギー源)」として再定義した。しかし、このリソースとしての権力は、なぜ多くの善良なビジョナリーの手からこぼれ落ちてしまうのであろうか。

現実の組織には、権力の獲得と行使を意図的に困難にする、強力な心理的・構造的障壁が存在する。本稿では、特にビジョンを持つ者が陥りやすい主要な障壁を特定し、そのメカニズムを解明する。これらの障壁を認識することは、権力獲得の戦略を構築する以前の、不可欠な第一歩である。

心理的障壁:公正世界仮説という「罠」

人間が権力の獲得に能動的になれない最大の心理的要因の一つに、「公正世界仮説(Just-World Hypothesis)」(M. J. Lerner)がある。これは、「世界は公正であり、努力は報われ、優れた実績は正当に評価されるべきだ」という認知的な信念、あるいはバイアスである。

多くの組織人は、この仮説を暗黙的に内面化している。その結果、「実績さえ出せば出世できる」「論理的に正しい提案をすれば(頭が良ければ)認められる」と信じ、組織政治という現実の力学から目をそらす傾向を持つ。

しかし、実証的な組織研究が示すように、組織内における昇進や影響力の獲得は、必ずしも業務実績や知性と正の相関関係にあるとは限らない。むしろ、政治的スキルやネットワーク上の位置が、実績以上に決定的な要因となるケースは頻繁に観察される。

公正世界仮説に囚われることは、自ら「政治的アクター」として振る舞うことを放棄し、権力のゲームが行われている競技場から自発的に退場することを意味する。この心理的「罠」こそが、権力を自己目的化する者たちに、無防備なビジョナリーが利用され、出し抜かれる温床となっている。

規範的障壁:権力をタブー視する組織文化

多くの近代組織、特に日本企業においては、権力への露骨な志向は「品位に欠ける」「和を乱す」ものとして忌避される規範(タブー)が存在する。これは第02回で論じた「権力を悪として捉える風潮」の組織文化的側面である。

この規範は、権力をめぐる公然とした議論を抑制し、パワー・ダイナミクスを水面下に押しやる。その結果、権力のメカニズムは非公式なもの、暗黙知的なものとなり、組織政治の「リテラシー」を持たない者にとっては極めて不可視的で、参入困難な領域となる。ビジョナリーが権力の必要性を認識したとしても、それを公然と追求する行動自体が、文化的な制裁の対象となり得るのである。

構造的障壁Ⅰ:合議制のジレンマ

現代の組織運営において、意思決定の正統性を担保するために「民主主義的な合議制(コンセンサス・ビルディング)」が広く採用されている。しかし、この構造は、革新的なビジョンの実現にとっては深刻な障壁として機能する。

合議制の本質は、ステークホルダー間の利害調整であり、その帰結はしばしば「最大公約数」的な、当たり障りのない決定に収斂する。ビジョナリーが掲げるような「オリジナリティのある突飛な施策」は、既存の部門や個人の利害を脅かすことが多いため、コンセンサスのプロセスにおいて最も早く否決、あるいは骨抜きにされる対象となる。

経験豊富な権力者は、この構造の特性を熟知している。彼らにとって合議の場とは、意思決定を行う場ではなく、十分な根回し(非公式な交渉と調整)の末に、すでに決定した事項の「正当性を固める」ための儀礼的な場に過ぎない。合議制という「公式ルール」を額面通りに受け取る者は、この構造的障壁によって権力行使を封じ込められる。

構造的障壁Ⅱ:過剰な主体性尊重がもたらす権力の分散

合議制と並び、現代のマネジメントでは「個人の主体性」や「自律性」の尊重が強調される。これは従業員のモチベーション向上には寄与する一方で、権力という観点からは「力の分散」を招く。

権力の本質が「他者を動員し、結果に影響を与える能力」である以上、組織の構成員があまりに高度な主体性を持ち、それぞれが異なる方向を向いている状態では、組織全体を一つのビジョンに向けて統合することが極めて困難となる。主体性もまた、組織の目標達成のために適切に「管理」され、方向付けられなければ、組織はまとまりを欠いた集団となり、ビジョナリーの権力基盤は構造的に弱体化する。

障壁の認識から戦略の構築へ

本稿では、ビジョナリーが権力を獲得する上で直面する主要な障壁を、心理的(公正世界仮説)、規範的(権力タブー)、構造的(合議制、主体性の尊重)の3つの側面から分析した。

これらの障壁は、ビジョナリーが組織政治の舞台に立つことをためらわせ、あるいは立ったとしてもその行動を非効率にする「摩擦」として機能する。権力を獲得するためには、まずこれらの障壁の存在を冷静に認識し、それらが自らの組織でどのように機能しているかを分析することが不可欠である。

次回、第04回からは、これらの障壁を乗り越え、権力を能動的に構築するための源泉はどこにあるのか、その具体的な構造について論じていく。

でるたま~く

グローバル戦略の支援企業でCEOを務めています。英国で高校教師を務めた後、ドイツで物理学の研究を続けました。帰国後はR&D支援のマネージャー、IT企業の開発PMを経て現在に至ります。趣味はピアノとギター演奏。

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